arcanum_jp’s blog

おっさんの日記

「諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉」なんか心理学っぽい考え

諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉

諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉


 ツイッター上のツイートが色々と共感して面白くて知ったのが自分にとっての為末大さんなので実はアスリートだったとか、オリンピックの人とかってそこから知りました。自分がいかに世間知らずだったかが分かると言う・・・結構ツイッター上でも人気があったのでこの本を自分も読んでみました。


 「諦める」と言う言葉は通常はネガティブな感情を持ってしまいがちだが、それを起点に、いかにポジティブに、未来に向かって諦める、道を見つけることが重要か、その考え方、納得の仕方など著者の経験から書いている。経験から見える過去の自分の客観的な見方と言おうか、、、覚めた情熱というか。暑苦しい自分を前に押し出した猪突猛進系の情熱ではなく他人事のように見た情熱みたいな・・・そんな文章です。

気になった部分

P34

人生は可能性を減らしていく過程でもある。年齢を重ねるごとに、なれるものやできることが絞り込まれていく。可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。

P46

とりとめもなく考えているうちに、やってもできないかもしれないけれど、やるための知恵のようなものを考えるようになった。

P134

それまでに、勉強でもスポーツでも趣味でも何でもかまわないから、没頭し、必死に努力するという体験をしたほうがいい。そうすれば「がんばってもうまくいかない」「あまりがんばらなくてもけっこういける」という感覚が得られるはずである。これが大事なので。長期的には「あまりがんばらなくておなんとなくできてしまう」ことのほうに努力を振り向けたほうが成長できる。

P140

言い換えれば、努力には、「どれだけ」がんばるか以外に、「何を」がんばるか、「どう」がんばるか、という方向性があるということだ。

P167

多くの指導者は、スタープレーヤーが取り組む驚異的な練習を見て、教え子たちに「見ろ。あのぐらい練習しているからあそこまでの選手になったんだ」と諭す。しかし、スタープレーヤーは、努力を努力と思わず、努力そのものが楽しいという星の下に生まれてきていることがほとんどだ。

P174

「がんばっても無理なことがある」というのは、決して夢を否定しているわけでもなく、努力することを無駄だと言っているわけでもない。そのことが腑に落ちるのは、何かを諦めた経験があってこそなのかもしれない。

P212

「今」に意識をおけば、実は努力をしていること自体が報酬化している場合がある。将来の結果で報われるかどうかはわからなくても、「今が楽しい」という、その状態こそが報酬になっているのだ。皮肉なことにそのとき、楽しんでいる本人には、「努力と成功の取引をしている」という感覚がない。

所感

 「自分を足る」という感覚を読む分にはこの本は自分の年になると、あーーーわかるねーーってなる。その言語化されたのがこの本って考えればオッサンホイホイな本だと思う。いくら努力したって皆が成功する訳じゃないってのも(もうこの年になれば嫌でも)分かるし、才能あるヤツと自分の差とかね。アスリートってのは絶対的な評価で評価される分、余計に努力すれば出来るように見えるし、他者の憧れ、自分の思いを乗せられる媒体なんだろう。でもそんな方からこの本のような事を言われれば、「それを言っちゃおしめぇよ!」的なアスリートと言うイメージに対する感情的な反発が起きるんだろうね。色々と本の中にも反対意見的なものも書いてあった。


 はじめての諦めるの成功体験が冒頭の話(にしても18歳の夢もチボーもある年に凄い葛藤だったなとは思うんだけど)なんだろうけど、こういう境地に到達するのはやっぱり頭がもともとよかったんだろうね。先日のイケハヤ本「なぜ僕は「炎上」を恐れないのか 年500万円稼ぐプロブロガーの仕事術 」のクラス内での立ち位置みたいに自分を他人事のように見なきゃこうはならない。他人事のように見るのが頭がいいって訳ではないと思うけど、にしてもじゃあ、そう言う行動が出来る習慣ってのは何なんだろう。どこから来るんだろうって思うわけさ。


 オッサン的にはとても共感できて面白いし、ほかの人にも読んでもらいたいなって思ったりする。書評でも学校の図書館にとか自分の子供にとか行った文章はよく読むけど自分の子供に読んでもらいたいかと言うとそうはならないな、、と感じた。何かしらの成功を得るためにはこの本でも言うようにもっと戦略的に何かを諦めて何かをより磨き、成功しやすい分野などにスイッチするのを考えていく必要があるというのは分かる。でもその分野である程度のレベルになるには著者がp134でも書いている通り、没頭っていう経験、プロセスが必要なんだろうと。そのプロセスがまずあり、必要性として前向きに諦めるという感覚があるんだろう。

 P134で言うように没頭していて何か知らんけどあまり頑張らなくてもよくてもなんかよくできるってことが重要で、それは先日読んだ「なぜ、それを好きになるのか?脳をその気にさせる錯覚の心理学」のような感覚なんだろう。「処理の流暢性の誤帰属」と言っていたな。


 世間ではその没頭やプロセスを「努力」と言うキーワードにして語るわけだけど、本書でも言っているようにそもそもその分野で才能がある人は努力を努力と思わない行動をしているわけで、まぁつまりなんだな・・・好きなわけですよ。言わせんなよ。好きな事を他者から見れば圧倒的な時間を費やしている。戦略とか諦めるとか言っていいのは子供のようなまだ圧倒的な時間がある限り、没頭ってプロセスを経てからでいいんじゃないかな。没頭そのもので得るものも多いでしょ。そこで著者の高校時代の先生のように他者の目として適切な事を言ってくれる人がいるのであればいいし、それが親や大人の役目でしょ。その没頭の中で考えて考えてこの本に出会い読むならなおい良いんだろうけど。


 子供のころ、偶然にもBASICを知ってゲームを作るようになったとき、作りたいゲームがアクション性のあるゲームでBASICじゃ遅すぎる。機械語ガーってことだった。じゃぁそのときに戦略的に考えてとか機械語を諦めてBASICだけで出来るパズルゲームだけとか考えるのかな?それはそれで違う方面に行く可能性はあると思うけど、作りたいゲームがあって機械語だけが障害だったら覚えるでしょ。自分もそうだったしそれが自分の小さいが没頭できた時間だった。没頭の中に葛藤があり、工夫があり、多様な知識、経験が手に入る。残念ながらその機械語を使ったゲームはベーマガに投稿できるほど面白いとは感じないモノだったし、それが30年後の今何かの役に立っているかと言うと疑問だけどw


 最近考え方がオッサン臭くなったな・・・説教くさいというかなんというか・・・ガード下の一杯飲み屋で飲んべになって「カチョーぱーろーん、、オレの若いころわゎ・・」とか言っているようなオッサン・・・ヤバいな・・・言うは易し、もっと自分も没頭して諦める感覚を取り戻さねばなるまい。