arcanum_jp’s blog

おっさんの日記

「やさしさの精神病理 (岩波新書)」を読んだ

やさしさの精神病理 (岩波新書)

やさしさの精神病理 (岩波新書)

たしかTwitterで自分がフォローしている人が面白かったと言っていたので、購入。最近このパターンが多い。


著者の精神科外来に来る、精神病とも違う悩みを持った患者たちを診ていて、著者の世代の「やさしさ」と外来に来る比較的若い世代の”やさしさ”が異なる事に気づいた。

前者の従来的な「やさしさ」は、70年代の学生闘争など社会的な閉塞感などのなかお互いに傷をなめ合うように、相手を思う事で気持ちの一体感を伴ったやさしさで、治療的な側面を持っている。

一方若者のもつ”やさしさ”は、お互いの心に踏み込まない、相手の気持ちで自分を傷をつけないような放っておくやさしさで、予防的な側面を持っている。お互いに立ち入らない今のやさしさは言い換えれば人や自分に対して決断や責任からのがれるものでもあり、自分が傷つくのを恐れていると著者はいう。それがゆえ、著者いわく自分で決められないがゆえに精神科に気楽にやってくるのではと。そして受診してスッキリして帰っていくという。自分が傷つくとは、自分のせいにされるのが嫌な時代。とのこと。p191



途中、やさしさを象徴するものとして「絆」の話が出てくる。この字は本来は「紐」の意味で、読みとしては「きずな」(情愛のこもった関係)とも「ほだし」(束縛)とも読む。ちなみに面白い事に5章で英語でも同じような表現として「ボンド」と言う言葉があり、単数形だとまさに「きずな」で複数形になると「束縛」の意味になるという。面白いね。


著者の世代の「やさしさ」はお互いの一体感を伴うもので治療的であり「絆」と書いて「ほだし」の側面を持つのだろう。人間関係そのものが「きずな」であり「ほだし」でありそのまんま両者は葛藤を抱える。


若い世代の”やさしさ”では相手に踏み込まないために「ほだし」の側面が弱い。そのためポケベルであったり人形であったりを他人との絆を(勝手に)感じる物として代用している。その極端な例が4章の精神分裂症患者の「絆」の感じ方。人形は相手との結び付きを自分の記憶を基に感じさせる物であるが、生き物でも無く感情も無いため、ほだし(束縛)は感じられない。純粋な「絆」なのである。


興味深かったのが、5章でアメリカ人患者がホームステイ先で日本での「やさしさ」で家族のように扱ってくれた中、「ファミリー」にはなれるけど「家族」にはなれない。自分が自分ではなくなる、という趣旨の言葉を言っていたこと。先日読んだ河合隼雄先生の「中空構造日本の深層」と言う本で、アジアは母性的な部分が強い社会であることを述べられていたが、踏み込んだ従来の「やさしさ」と言うのは母性の中でも太母に近いものではないのだろうかと。


太母とはユング心理学の言葉で、無条件で愛を与え、守ってくれる、受容するのが母性なら、その機能が強いなら対象者を飲み込む、束縛する、最終的には殺すという側面も持っています。そのため自我を持つ西洋人であるのアメリカ人は従来のやさしさである束縛により飲み込まれる感覚(ほだし)が自分の自我がなくなる、自分で無くなるという感覚を持ったのではないだろうか。


ここでふと思ったのだが、日本のサービスがいう「おもてなし」と言う言葉。おもてなし自身は相手を受容し、おもんばかり相手のしてほしい事をするサービスで、母性的なものだと思っていて。これこそが強い母性としての太母的なサービスなのじゃないかなと。じゃぁ先のアメリカ人のように自我が発達した人たちが日本に来た時に、このおもてなしのサービスは果たして良いサービスと感じるのだろうかと。西洋人のような母性から自立した人間がまた母性によってのみ込まれるサービスは一時的に良いと感じるかもしれないが、どうなんでしょうかと。


この本を読んでいて、著者の持つ従来の「やさしさ」が本当のやさしさで、若者の持つ”やさしさ”が偽物でまぁ、若気の至りの感覚と言う分析と言う文脈で読まされるのかなと感じていたのだが、5章の、日本で”やさしさ”を知り「やさしさ」が鬱陶しいと感じるアメリカ人により、若者のもつ”やさしさ”は国際的に見ても普通の感覚であるという所で梯子をはずされた気分になった。(悪い意味ではない)おお!なんと凄いどんでん返し!若者は無意識的にも国際的な感覚での”やさしさ”を身に着けていたという事なのだろうか。


五章で指摘されたように若者がもつ”やさしさ”が国際的には標準が本当なら、著者の時代の「やさしさ」てのはお互いに一体感を容易に得られるような同質性がベースになってるから生きた、やさしさなんじゃないだろうか。若者の”やさしさ”は他人に異質性を感じて立ち入らないというのじゃないかな。プロトコルとしてのコミュは必要だけど他は立ち入らないみたいな。だからつかず離れず、束縛せず立ち入らないが「ほだし」が無い分、相手を何かを通して弱い絆を感じる(と勝手に解釈する)必要がある。


例えば他民族国家であるアメリカで、自分と主義主張が異なる人なんて容易に見つかるし、その人たちがまぁ争いも起こさずにやっていけているのは、そこでイチイチぶつかっていたら物理的にも精神的にも傷を負うだろう。そのためコミュニケーションとしては基本的な同じプロトコル(礼儀作法)や契約以外は放っておく方が正しい行動になるんじゃないかなと思っていた。また、これからいやがおうにも別の国の人と社会で触れ合っていくし我々もそう変わっていくんだろうなと感じていたが、その感覚が若者のやさしさとして表れているのではないかなと感じた。(若者の”やさしさ”の成立過程はいささか異なるのだが)


西洋人の考える優しさってのが自分の自我をベースにした相手との*ほどほど*の関係でそれが国際的で日本の若者が感じるものなら今の若者は既に河合隼雄先生が言うような自我のない日本人ではなく違う日本人になりつつあるんじゃないかなと


この本自身は1995年初版で、著者の分析から2017年現在は既に20年以上が経過している。実は著者が指摘しているように、やさしさの感覚なんて、70年代に学生闘争時にやさしさの意味合いが変質したというように、それまでのやさしさからドンドン変化してきている。


その時の若者(実は自分もだったんだけど)が今40〜50代で社会の大きな部分を担いはじめ、”やさしさ”は既に一般的なものとなっているのだろう。じゃぁ、著者が1995年に指摘した”やさしさ”は2017年には30年とはいかないまでもそれ相当の時間がたっているわけで、今の若者にとってのやさしさはまた変容しているのかもしれない。またその数十年後など、未来にどのように変わっていくのだろうかと妄想せずにはいられない本であった


中空構造日本の深層 (中公文庫)

中空構造日本の深層 (中公文庫)