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おっさんの日記

日本史リブレット:蝦夷の地と古代国家

 

蝦夷の地と古代国家 (日本史リブレット)

蝦夷の地と古代国家 (日本史リブレット)

  • 作者:熊谷 公男
  • 発売日: 2004/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

蝦夷(えぞ)かぁ、、そうすると古代国家が北海道に進出した話かな?とふと本の題名を読みジャケット買い。結構内容も確かめずに買います。内容確かめ始めると選んじゃうので。「蝦夷」と書いて「えみし」と読み、古代日本の東北南部から北にいた人たちと当時の日本にあった国家、倭国の話。

 

古代日本において倭国が成立し、王国以外の人々について、九州地方の熊襲、隼人と同じく文化的に異なる人たちを化外(けがい)の民と呼び、東北にいた人々はひとかげらに蝦夷(えみし)と呼んでいた。

 

蝦夷と言うと蘇我蝦夷を思い出すが、そういえばなぜ蘇我蝦夷は名前に蝦夷なんてのつけたのだろう?ってふと思ったが、蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用、だそうだ。

 

ja.wikipedia.org

 

日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である(小野毛人や佐伯今毛人、鴨蝦夷らも「えみし」を名として使用している)。蝦夷は蔑称であり、毛人が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。

 

 

本書にも書いてあるが蝦夷の由来とは、中国の華夷思想(中華とそれ以外と区別し、差別することと王権による徳知思想による運営及び周辺国家の懐柔)の影響を受け文化的に異なる人々を表す「夷」に、蝦夷特有の毛深さ、そしてエビのような長いヒゲといった特徴から当時、エビを表す「蝦」をつけたという。また、狩猟を生業とし、馬を用いた弓が得意、戦闘能力にも優れ、長年中央政府軍を苦しめてきたとあり、なるほど、こいつぁぁ強いぞ!って良い意味で蝦夷を蔑称としてつけるのもうなづける。

 

その蝦夷、今では「えぞ」と読んだりしてるように、倭国により北方に追いやられて北海道(蝦夷/えぞ)に行きアイヌとなったと言う風に自然に考えそうだが実は逆で、弥生時代以降、もともと北海道にいた人たちが続縄文文化の次に擦文文化を作りあげるが、十分に擦文文化が育つ前あたりに本州に渡ってきたと今では考えられているそうな。

 

北海道から渡ってきて縄文期の狩猟を中心とした縄文時代の生活しながら南進しているうちに弥生文化以降にコメを作りつつ家にカマドがあって圧倒的な文化的超便利生活をしている倭国の住民に出会ってしまったと言うわけ。

 

女「ねぇねぇ、うづもカマドちゅぅやづを作ってくんろ?」

男「カマドだ?あっただもんいらん、、いままでの外でええでねが」

女「だってさ、わのひどら、うづんながにあってしょぐづもうづでつぐれで超便利だべ?って言ってたさ」

 男「いやいやわごくはうづらのてぎだがら、、」

女「となりももうカマドつぐってもらったけよ?うづだけだよ?あんだのかいしょうなす!もう知らんけね!!」

男「あぁ、、わかったわかった、つぐっがら!カマドつぐっがら!」

 

みたいな会話があったかどうかは知らん。

 

東北も広いので倭の王国の人たちは蝦夷と読んでいたが、倭国と接した東北南部と東北北部では文化的にも交り具合が異なり当然蝦夷の文化も違いがあると本書では言う。なので東方にすんでいた蝦夷が皆自分たちは仲間だと思っていたかと言う事はなく、東北南部から北部を見れば田舎もんだし、北部から南部を見れば倭国の奴らになっていたんだろうね

 

本書でも書いているが実は蝦夷と言うのはその北海道の続縄文文化、擦文文化と倭国の文化の影響を受けながら両者の交流の拠点的な立ち位置だったと言う。なので宗教は今までのもので倭国からもたらされたカマド、土師器、須恵器などの便利グッズを使いつつ生活していた。拠点というのは美味しい果実なわけで倭国はどうやってこの野蛮人たちを征服していくか、というのが本書の後半

 

 倭国蝦夷征服を本格化させるのは大化の改新後で、評(こおり、と読み郡の前身となる)の制定により中央の国司による地方の管理になり豪族の力が弱められたが蝦夷に対しては 基本的には柵(き、と読む)の設置による軍事制圧と個別の蝦夷集団に対する懐柔策が主となる。おお!マンガ天智と天武でBLばっかやっていた記憶があるが、史実としてはBL以外の事してたんだな中大兄皇子(違!)

 

 

柵と書いてしまうと中国の万里の長城みたいな蛮族が登って来れないような壁を東北に延々と作るのかなと感じてしまうが、1km四方ぐらいの土地を柵(き)で囲みその中に役所的な国司が活動する場所?や兵、関東からの移民(柵戸と言う)を入れて生活する。実は柵は城の意味で、要するに征服する地に城を作ってしまうと言うもの。

 

自分の今住む地域でも多賀城と同時期に大崎(旧古川)、牡鹿、東松島などかなり広範囲に柵が作られており大規模な蝦夷支配の足掛かりになっていたようだと本書では語る。ただ、柵は軍事施設でもあり、蝦夷との交流の場でもあったといい、そこに蝦夷朝貢すれば便利グッズや文化的な便利な情報、名をもらえ倭国の一員として帰化できた。また城には柵戸(きのへ)と呼ばれる移住者がいたから蝦夷はその人たちと雑居し、交わっていったという。

 

 ふと読んでて感じたんだけど倭国の民というのはもともと朝鮮半島渡来系の人たちの末裔なわけで、その人たちが日本全国に散らばり文化的に征服していくって図は、インドのカーストの成立を思わせる。古代アーリア人がインドの土着民族であるドラヴィダ人を征服し、宗教として身分を作り社会を固定する。

 

日本の場合は華夷思想もあり軍事行動もあったが懐柔も使いやや文化的に征服していったし倭国の便利な部分は蝦夷も受け入れていったという事だろう。古代中国の華夷思想が夷狄を征伐するオンリーだったらと思うとゾッとするね。

 

 ものすごく面白い本だった。自分実はこの時代が面白いのかもしれんねと。

 

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