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おっさんの日記

日本史リブレット、弥生の村

 このシリーズ面白すぎる。薄いので時間をかけずに読めると言うのが嬉しいし、通勤時に持っていくのに最適なんすよ。

弥生の村 (日本史リブレット)

弥生の村 (日本史リブレット)

  • 作者:武末 純一
  • 発売日: 2002/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

 縄文と弥生、日本史リブレットでも何冊かあって、読むたびに感じるのは、縄文人弥生人は同じ流れで日本にいたのか?縄文人が進化?して弥生人になったのか?と言うこと。本書のはじめにも書いてあるが、縄文文化は自然との調和であったのに対し、弥生が自然との対立であるから。

 

江戸時代終わって明治政府が富国強兵で色々と日本人の文化やメンタル変えて現代にも影響しているように、どうしてそうなった?って感じるぐらい違うんだよね。なので勝手に渡来人系の人たちが弥生の祖先で付近の縄文人と混じり合いつつ弥生の文化が広まっていったのかな?と思っていた。

 

本書を読むにそれはハッキリと間違っていて、たしかに縄文の人がいつの頃か弥生人になっていったと考えられている。他の本でも縄文人も後期にはコメを作っていた跡もあるとあったり溝や柵もあったと聞くから、過渡期は縄文とも弥生ともハッキリしないのだろう。そこへ弥生文化が出来上がったある時期から渡来人系の人たちも混じってきたと言う形。

 

まず縄文と弥生の決定的な違いとして縄文が狩猟、漁、木ノ実の採取を中心として暮らしていた、いわば自然との調和、自然と暮らす生活(自然の恵みに頼らざるを得ない生活)であったのに対し、弥生のそれは自然から人間社会を分けて、コメの栽培に見るように自然を人間の力で制御しよう、自然は人間のためのものであるとする、真逆の文化になっているところ。

 

本書では環溝(本書では環溝と書いてるが環濠/かんごうの意味)の研究を中心に弥生人が自然と人間を分けるものであったのが、それがいつしか身分を分けるものへと変わる様を書いている。

 

環溝と言うのは読んで字のごとく、集落の周辺にぐるっと溝を掘ったもの。これは野獣の侵入対策も兼ねていたとも書いている。だいたい10,000平米とか平気で書いてくる。大きいのだと300,000平米とか。プチセレブのマンション100平米として100部屋ぐらい平気で入る広さ(プチセレブ知らんけど)

 

これが村となっていてこの中に溝の内側に数件の竪穴式住居があり、中心部は広場になっていて、井戸や高床式の倉や宗教施設などがある。日々ここから田んぼに向かって野良仕事をしていたわけだ、、、

 

初めは円形の環溝だったがやがて環溝内には住めない人たちが出てきて身分ができる。農業生産力は人口が多い(大きい村)の方が有利だから周辺の村々を統合(簒奪関係とか)したりと大きくなっていき、それが国の始まりとなる。

 

円形だった環溝は四角形(方型)となり、内部は村を把握する権力者が住む。環溝の中心には倉があったから権力者たちが独り占めする構造となる。富む者たちはより富むのだ。住民は環溝内では生活できず、周辺に家を立てていたようだ。墓も違う。初めは共同の墓地だったものが、一族の墓地に代わり、強大な権力を持った個人の墓地へと変わる。

 

現代では職業が専門家しているように弥生でもみんな農業だけをやっていたわけではない。本書は農閑期の石包丁作りであったり土器、青銅器作りであったりそう言った物が専門的に作られていた事も書く。本書で紹介するのが伊都国と奴国の例でこれは魏志倭人伝でも唯一、王がいたとされる国。

 

この2つの国は農業生産よりも中国、朝鮮との交易で得たものを周辺諸国へ配布する事でまかなうのが主だったようだ。舶来の便利グッズをありがたがって求める周辺諸国から食料の貢物や周辺諸国からの簒奪もあったろう。

 

ツクシ政権(九州王朝)と言うものもあり、こちらは山に人を住まわせ、連絡に狼煙をあげる、通信施設なんてのも作っている。これは他国との戦争のためと言うより交易路の確保、保全のためにいた人たちのようだ。

 

弥生人は皆農業で生計を立てていた、必要なのは自分で土器とか作った、コメ食ってりゃ大丈夫!というのではなく実は現代と同じく様々な職業、形態に分かれていたと。牧歌的な弥生時代だったと思っていたがまるで現代と変わらないところもありとても面白く読めてしまった。

 

 

 

 

読んでるときのメモ

https://twitter.com/arcanum_jp/status/1242959122468712448