arcanum_jp’s blog

おっさんの日記

「日本史リブレット、破産者たちの中世」これは残された文書から見るサスペンス。歴史とはこんなに面白いんだな

 

破産者たちの中世 (日本史リブレット)

破産者たちの中世 (日本史リブレット)

 

 

 はじめにで書いてるが、中世の破産者(達)の末路を書いて喜ぶ本ではなく15世紀京都で起きた一つの裁判記録からの分析。

 

しょっぱなのこの一文でぼくのこころはかきみだされた!なんだつまんねぇじゃねぇか!もう買って手元にあるのに!

 

もっとも本書は、彼らの放蕩な生活ぶりとか惨めな末路とかを描こうというのではない。だから、そのような期待をもって本書を手にとられた読者には、おそらく期待はずれになろう。

 

しかもこうも言う。

 

また対象とする時代も、「中世」とは謳いながら直接には十五世紀京都で起きた一裁判を取り上げるにすぎない。この点でも読者の期待を裏切ることになるかもしれない。

 

しかしこの僕の残念感は良い意味で裏切られる事になる。この著者、こうなることを期待して書いていたのなら本当にすごいやつだな!

 

一見、債務者の了承無しで質流れを売れないなど債務者有利な中世の制度で債権者はなぜ金を貸す事ができるのか?また借金を回収できる何か?があるのではという本。 

 

はじめにこの本の元となった裁判についての記録から入る。足利義教時代の「御前落居記録」と呼ばれる裁判記録、72件の裁判記録なのだがその中の16項、尾張某が禅能なる人物に貸した返さない、いや返したの話で訴え出たなんの事はない訴訟の記録から債権譲渡の話へ発展する。

 

松梅院禅能(しょうばいいんぜんしゅう)なる人物が借りた借金が誰に返したが自分はその債権を譲渡されたから返していない。だから返せ。その債権の譲渡の道筋をたどるとA➡️B➡︎C➡︎Dと果てない。その中で禅能はここで返していると言う。質流れは勝手にできないが債権譲渡は普通に行われていた模様。

 

今でも債権は譲渡されるとどこに行ってどう返ってくるか分からないけど、この時代でも債権と言うのは貸した借りた本人たちから離れると話がややこしくなってしまう。しかし義教はその話の隙から嘘を見抜き、債権は譲渡されておらず個別の債権でまだ返してはいないと言う。と言うところで裁判の記録は終わる。そういうところ。面白いな。これサスペンスドラマでやったら面白い。

 

しかし本書の殆どはこの禅能なる人物の周辺の歴史を紐解き、この裁判が起きた事情へと続く。日本史の時間。この話が非常に面白い。松梅院禅能、北野社(北野天満宮のこと)が寵愛を受けた足利義持なる人物、父親は義満で一休さんと言えば僕らの世代はあぁあの時代かとなるだろう。この人物が死の間際に義教を後継に指定せず死んでしまったため、幕閣によるくじ引きで義教が将軍として決まった。

 

さぁ、前代未聞のくじ引きにより決められた義教は心穏やかでは無い。義持時代の全てが憎い!憎すぎて禅能を追いおとす。その中で裁判により禅能を追い詰める。裁判により借金を返す事となたわけだけど、その方法が所領の年貢から返していくと言うもの。なんだ生ぬるじゃぁねぇか?身ぐるみはいで簀巻きにして寒い中放り出してしまえ!とまでは言わないが思ってしまう。

 

この時代禅能などが運用資金としてお金を引き出すのは何も所領の年貢からだけではなく、土倉(どそう)と呼ばれるお金を貸す組織があったようだ。この土倉から借りた金を返さないと言うのが先の裁判。しかし本書によるとこの土倉、今の銀行顔負けの運用を行なっており、金主となる人は身内によるがっちり固めた形態から、見ず知らずの人から小口の金を集めて運用すると言う方法、まさにこれ今の「銀行」じゃねぇか!とか。

 

その土倉は本書の元になった、質物を勝手に売れないなど債務者有利な制度のなかどうやって金を回収していたのだろうか?それが本書のなるほどぉ・・・となる部分で、読むと面白い。

 

とりあえず間違いもあるかもだけど、メモっといた僕のツイート