本屋で本当にふと手にとってタイトル買い。西洋人から見た日本の司法制度が中世以下であるといういたるところで言われる認識を再確認し、心が折れそうになり、途中で読むのをやめた。こんな感じ。
本書はタイトルが死刑と言うあんまり考えたくない制度を切り口に、日本の司法制度がいかに異常性があるかについて、先進国では日本以外では唯一、死刑制度が存続しているアメリカとの比較で論じています。
まず、アメリカでは死刑判決は特別なものだと言う、それに対し日本の場合裁判において通常の判決と死刑判決は分けられていない。主文、被告をxxに処す、みたいなので全部同じってこと。ではアメリカでは死刑判決をする場合どんなプロセスがあるのだろう?
- アメリカでは有罪、無罪の判断、刑量の判断は別々に行う
- 軽量の判断時に死刑が妥当な場合はスーパーデュープロセス(超適正手続)という仕組みで行われる(以下、スーパー〜の内容)
- 死刑判決の裁判員は、裁判官から刑罰の指針として「荷重する要素、軽減する要素」の指示がある
- 死刑判決を受けた場合、被告の意思に関わらず上訴される
- 上訴された上級裁判所では、量刑に不適切な格差がないか、均衡審査が行われる
- 死刑判決には陪審員12人全員の同意が求められる
ここまでの重いプロセスが行われ、なおかつ死刑になった者が刑に処される。一方日本ではどうだろうか?裁判自身は公開であろうが、プロセス自身は非公開で行われる。
アメリカではこれだけ重いプロセスで死刑判決を運用していても必ず誤審、冤罪は発生し、最終的には
「死刑制度を構成に適正に、そして誤りなしに運用するということは不可能である」
と言う結論に達している。p47。
ネットでは某国の裁判が国民感情により決まる、と言うのを笑い者にしているのを見かけるが、自分はつくづく思うのだが、この周辺の国々はいたるところで似ているんだよねと、この本で死刑制度について論じる際、被害者の意見が量刑に重い影をおとしてるとあり、それは司法に感情を判断に入れている、と言う事の現れでもあり、死刑制度でそれが見られるというのは他の裁判でも見られると言う事だろう。
死刑制度を適正に運用しようとして、できないと言わしめたアメリカと異なり、日本の死刑制度は国民感情の現れなんだろうなぁと。死刑は国民からの復讐なのだろうと。
実際問題アメリカは死刑制度があるが、死刑制度が廃止された州もある。変わってきているのだろう。本書の文脈からは、死刑制度は欠陥制度であり、廃止すべきだ、(根底には推定無罪のような被告人の利益があるのだろうけど)なのだし、アメリカもそう変わりつつある。
じゃあ日本は?と言われると、それ以前に本書を読むと感じるがよく日本の人権や司法制度は中世並みと言われることがあるが、そっからじゃぁなぁ・・・と暗澹とした気分となるのである