arcanum_jp’s blog

おっさんの日記

「脳が壊れた (新潮新書)」を読んだ

脳が壊れた (新潮新書)

脳が壊れた (新潮新書)

前々から話題になっていたような気がしたので購入。著者は以前読んだ「再貧困女子」を書いた人で、少年少女らを中心とした貧困問題にかかわる犯罪、裏社会などを取材するルポライター

脳梗塞等、脳の病気は身近でも起こるが、本書は、脳梗塞で倒れてから退院して今に至るまでをルポしている。その時に置かれる状況や気持ち、症状に対する対処(リハビリ)などが当事者ならではの視点で書かれ、はからずとも著者の取材対象としてきた人たちにリンクし、気づきを得る、、、


とこう書いてしまうと、なんだクソ真面目な本か・・ツマンネェと思ってしまいそうだが、これがまあ、、、失礼ながら、、面白いんだわ・・脳梗塞と言う一般的には不幸のどん底に落っこちたのにその状況を不幸中の幸いとばかりに自分の仕事であるルポのネタにしてしまう。その内容も面白おかしくと、著者には申し訳ないが、事象を文章にするプロである著者がこの病になってくれてよかったと。面白い以上に、当事者の抱えた問題が浮かび上がり、もし自分が・・・と言った場合にどのようになるのかが分かる。


脳障害になってしまい今まで意識しなくともやれていた動作がリハビリにより一つ一つ再度獲得していく。この過程が著者がもう面白可笑しく書くんだわ、例えばこれ電車で笑いそうになった。

朝だ出会って騒げばさあ

何のことかと分からないが、これは著者が左手のリハビリ(PCの打鍵リハビリ)の際に左の小指、人差し指の訓練のために療法師さんが考えた文章だ。確かにこれは今PCで書いていてものすごく左手に負担がかかる。この文章だけでも面白いがこれに付随する気持ち、派生する妄想などイチイチ笑いが付きまとう。電車では要注意だった。他にもデギン・ザビのネタであったり、涙腺崩壊であったりと、とにかく面白い。不幸を幸いとして、自分を外から見つめ、斜めな視線で書いてくる文章は笑いを誘う。


前回読んでいた「再貧困女子」のイメージが強かったので著者が本書で言っている中で強烈に感じるのは、リハビリと今まで取材対象としてきた発達障害の少年少女たちだ。リハビリの中で「今まで出来た事」を自分が再度獲得していく過程で、取材対象としてきた人たちは実は人生においてこの行動の獲得がうまく行っていなかったのではないかと。


著者は今まで獲得してきた至極あたりまえの行動が出来なくなり、人生における発達途中、モノによっては赤ん坊、または小中高の時代の段階に巻き戻され、そこからリハビリにより急速に失った当たり前の行動を獲得していく。その様は「発達の再体験・追体験」なのだという(p70)。その「発達の過程」を自分の外から分析する。それらは今まで取材対象としてきた心に闇を抱えたあの少年少女たちの陥っていた境遇、気持ちそのものじゃないかと。


実は彼らの「生きづらさ」というのは自分が今起きている脳に問題があって誰にも分ってもらえない苦労をしているのと同じであり、自分が意識しなくともなってしまう障害の症状は取材対象としてきた少年少女たちが意図せずとも陥ったやってしまう行動ではないかと。


著者が取材対象としてきた人たちはネグレクトであったり虐待であったりと、子どもの頃に当たり前のように教えられる、例えば箸は右手で持って食べると言ったとトレーニングすら受けていない、子どもを持つ親としてはそれは本当か?そんな世界があるのか?と思わされる人たちだ。当然学校などもまともに行っていないため学力は無い。そのような過程の中で家出して都会で未成年で生活する。当然、一人では生きる事はできず、都会にいるグレーゾーン、犯罪集団に囲われて生活が成り立つ。


その人たちは、普通の生活をするトレーニングを受けていないために、コミュニケーションが取れず、世間ではアスペルガー発達障害としてかたずけられている。そういった人たちは「すぐキレる。人の目をみられない」「延々と自分の事をしゃべり続ける」「何度逮捕(補導)されても悪事を繰り返す」「捨てられない。片づけられない」「もの忘れやウッカリが目に余る」など目に余る行動を取る事が多いが誰しも一つぐらいは(症状の過多はあれ)自分の行動に思いつくんじゃないだろうか。それが最大限に出てしまい、社会からはじき出されたのが、彼らなんだろうなと。。


著者は、彼らの取材の中でそんな彼らでも恋をしたり、人とのコミュニケーションをする中で、一般的な行動を獲得するようになってきた所を見てきていると言う。人が成長する中でそういったコミュニケーションなどの能力は教育と訓練と経験の中で発達するものであり、機能不全家庭の中で適切なコミュニケーションが出来なかった人たちがそのような境遇に陥るのは自然な成り行きと言う。さらに突っ込んで、もし彼らに医療的な何かがあれば良いのではないかと。

p82

そして思うのだ。彼女のそばに、今僕を支えてくれているリハビリ医療があれば、どれだけ協力な支援となっただろう。孤独と混乱の中にある生活困窮者や貧困者には、この「認知のズレが」共通して存在する。ならば彼ら彼女らに必要なのは、いち早く生産の現場に戻そうとする就職支援ではなく、医療的ケアなのではないか。それも精神科領域ではなく、僕の受けているようなリハビリテーション医療なのではないか。

これは以前読んだ「再貧困女子」でも同じように彼ら、彼女らには、小学校などの早い段階での支援が必要と訴えていた事と同期する。環境のために陥るなら環境を変える仕組みがあればと。


そういった事が自分が脳障害になり、はじめて彼らの本当の気持ちが分かってきたという。誰しも脳梗塞になんかなりたくないし、高次脳機能障害なんてはたからは見えない障害になって、分かってもらえない苦しさなんて味わいたくない、でもそんな人が自分の周りにいるときに自分は何が出来るだろうかと思いながら著者の笑いのツボに吹き出しながら読んだ。


最貧困女子 (幻冬舎新書)

最貧困女子 (幻冬舎新書)