バカなことだけど思ったこととか。Twitterでこんなことをつぶやいたこともあるため。
誰でもできる行動。今回の地震で自分に起きたこと、感じたこと、必要と思ったことをブログで書くこと。
今は必要なくともずっと後で必要になってくるはず。 #jishin
また、id:yuripopさんのモノ静かでインパクトの強い文章もあった。
私は阪神淡路大震災の被災者です。いまは関東に住んでいます。私には書けることがあるんじゃないかな、
http://d.hatena.ne.jp/yuripop/20110315
と勝手に思ったので、思いつくままにいろいろ書きます。
地震発生時〜地震発生直後
14:50ぐらいに地震発生
私arcanum_jpは宮城県に家を持っていて、仙台市中心街に勤めています。仕事は泥のように働くIT産業ですが、泥のように1年も働いたことが無い普通のサラリーマンです。地震直前に部屋中の携帯の地震速報が「ジュージュー」という音で鳴ったのを覚えています。
揺れ始めて何かヤバイ!と本能的に感じたのか、地震になったら机の下に隠れる!ってのが身に染み付いていたのか分からないが、みんないっせいに机の下にもぐった。自分も「なんかコレおかしい・・・」と感じていたのは確か。
揺れの最中、某高いビルにいる妻、保育所にいる子供たちが心配だと感じ、机の下で揺れているにも関わらずとりあえず妻に携帯メール。これがなかなか打てない。しかたなく受信されたメールに対し、単なる送信をしてしまう。僕は大丈夫だとこれで察してくれと言わんばかりに。意味無いなぁと言う冷静な自分もいたり。
宮城県沖地震のときは僕は7歳、近くの順一君と一緒にドブ川でザリガニ取りをやっているときに見舞われました。ドブ側はダプンダプンと波打ち、立っていられないほど。でも揺れはそう長く続かなかったと記憶しています。しかし今回の地震は「まだか?」「いつ終わるの?」と言ったイラっとする長い時間続きました。公式発表だと5分程度だったと思います。
強い揺れがあり、収まってきたなと思うとまた強い揺れに戻り・・・こんな感じで机の下から見える風景は電気が点滅し、停電し、部屋が薄暗くなり、なにかUPSがピーピー騒ぎ出し白熱灯とみられる非常灯が点き今まで見ていた部屋がまるで別物に変わっていきました。机に置いていた携帯、資料がどんどん下に落ちていきます。隠れた机でさえガシャガシャと動き回り引き出しは飛び出し、人がつかむ場所をなくします。
ゆれが収まり、その作業場のマネージャー達はいっせいに人員の安否確認をします。自社のみならず協力会社の安否まで確認しました。協力会社は自社の行動指針に従って動くよう促されます。以外とこの言葉助かります。先日災害訓練をしたばかりでしたが、その災害が起きたときの集合場所に移動。とりあえずコート着て荷物持っての時間はありました。
15:00避難場所に移動
人員の点呼をして作業場所から避難場所へは大体300mぐらい。その300mを進むのも結構な人。その中で何か携帯で写真を収めている人もいる。途中、ビルから落下したと思われる外壁とかが見えてきましたが、まぁ、外壁なんてたんなる皮だからなぁ、構造には影響は無いだろうと考えていたり。途中、旧141ビルあたりから煙がモウモウと立ち上がっていたり。避難場所に移動する間も比較的大きな余震が何度かありました。
避難場所
避難場所は近くの公園でした*1。ここに集まって感じたのは、多くの人、企業が避難場所は「ココ」と指定するのは良いが、避難場所が広過ぎる場合、避難した社員達が会えない可能性の方が高い。その場合、避難場所の東側といった場所を具体的に限定するよう指示すべきだなぁと感じた。
ここではまだつながりづらいが携帯からWebは見えていた。Twitterとかのタイムラインを見て、津波予想が10mになるだのに驚いたり自分と同じ気持ちの人にRTするぐらいしかできないが、それでもWebはつながっていた。ワンセグで見る石巻のライブ中継はなぜか船?倉庫?らしきものが海に沈んでいて、「ウソ?」な感覚。メールは何度となく妻に送るが、送信はできるが相手に届いているか分からない。相手側MTAがエラーを返して来ないということは、まぁそのうち届けてくれるぐらいに考えていた。15:30ぐらいまではここにいたと思う。安否確認サービスが502を返してきたのは秘密。
避難場所2 16:00ぐらいから
作業場所にいる人の計らいで土曜日の作業メンバーを中心に別の場所に移る。移動中飲み屋の前で酒のビンが割れていて片付けている姿を見る。コンビニでモノを買う人達を見て、いまのうちに買わねばと感じた。
避難場所2についてとりあえず、何人かで食料の買出しに出る。コンビににより対応がまちまち。いくつか食べ物を購入したが特に店の食料が無くなることも感じられず「この程度なら帰りにまたコンビに寄ろうか」と考える。これが後で裏目に出ることになる。地震の影響か、ものすごい雪が降る。前が見えない。差した傘にはものの数秒で雪が積もる。しかしすぐにやんで青空になる。不思議な天気だ。
このあたりからメールの送信が不可になり始める。携帯からのWeb接続もできなくなるが妻と自分の家族と奇跡的に連絡が取れ無事を確認。それ以降電話も通じなくなる。完全にスタンドアローンの状態となる。
事務所へ移動
この避難場所2に明日まで待機するか、各自帰るかどうかの選択で、会社の事務所に自転車があり、僕はそれで帰ることを選択。家まで約20KM。その避難場所2から事務所まで約2Kmを歩く。途中、酒屋さんの床がぬれているのを発見。当然酒臭い。大通りはなんと信号がついている。はえーなTDKとか思いながら自社に向かう。途中、東北電力本社のエナジービルは電気が点いていることを確認。まぁあそこがヤラレテいないんだからとりあえずは大丈夫かなとか思いながら。
途中、日が暮れてしまい17:00過ぎぐらいに45号線と本線がぶつかるところで横断。信号は全て止まっていて既に警察官らしき人が交通整備を始めていた。仙台駅近辺まで移動したが、ヨドバシの通りを見て愕然とする。街灯がついてなくて予想以上に暗い。オマケに防犯用のサイレンがどっかで鳴り響いているし。
今まではなんとか夕暮れの明かりのなかを車の光が沢山あるところを歩いていたので気付かなかったが、そんなヨドバシの通りを歩いてこんなことに。
- まず街灯がないところを歩くと前が見えない。
- しかし前から車が来ると今度はライトがまぶしくて見えない。
- 前からライトを持った人が来てもまぶしくて自分の前が見えなくなる。
- 当然ライトがなくなると今度は人が動いているのすら見えない。暗闇は人にとって恐怖以外の何者でもない。
事務所に着き自転車に空気を入れてみたがすぐ抜けるようになっていたので使い物にならず、ここで途方にくれる。しょうがないので歩いて帰ることを考えた。この時間からどのコンビニも終了し、何も買えなくなる。この時点で19:00、家までは20Kmの道のり。まぁ、夜は長いし明日は休みになりそうだしということで、いいか!と考えたが・・・3Kmほど進んで東照宮が見えてくる雨宮通で力尽きた。意外と俺ってだめだなと思う。
3台ほどのタクシーに、燃料がないのでと断られる。お金でヒッチハイクをしようと思った。「xxまで2000円」この値段は自分の家までタクシーで行った場合の半分ぐらいの値段。その方向に行く車ならいい値段だろうと思った。しかし車はヒッチハイクできなかった。奇跡的に通りかかったタクシーを拾う。少し進んだところでタクシーを止める人がいる。タクシーの運転手さんの機転で自分に相乗りはどうかといい、「どこまで?」と聞き、方向が同じなので相乗り。自分としては願ったり叶ったり。で、一緒に帰る。仙台市内のレストラン、オ・コションブルーというフランス料理屋の方。
帰るまで感じたことは、日本人ってなんとも礼儀正しいんだなってこと。大きな道路は電気が復活していて信号は動いているんだけど、それ以外の小さな道路の信号は当然止まっている。そんな中でもドライバーは道を譲り合っているし、コンビニの店員達は健気に暗い中対応している。歩道は沢山の人でごったがえしているが混乱もせず歩いている。
家には20:30についた。家では妻と子供が暗い中食事をしていた。途中のコンビニで買ったと思われるリゾットのようなものを電子レンジでチンもできずに食べていた。自分も食べたがとてもじゃないがまずかった。新婚旅行のハワイで食べたコンビニのおにぎりのようにご飯がボロボロしていた。疲れていたので、それでもほおばる。食べれる部分だけ食べる。先日、何かの被災者が乾パンだけの生活になって不満を言っていたのに批判があったニュースを思い出す。
その日はすぐ逃げられるように私服に着替えて寝る。こういったとき人間ってのは自分の中に怖い魔物を出すもんだと感じた。地震、停電、不安、それが何か外をゾンビでもうろついていて、そこからこの家に逃げて閉じ込められた僕達みたいなB級映画のワンシーンに居るような感覚になった。寝るのも凄く怖かったし、寝ようと思っても朝まで何度も余震があり寝られなかった。
地震のあった次の日からは丁度、三寒四温のシオンに入ったらしく、大変暖かい日差しが出てきた。まず情報が欲しい。電話は×、携帯も×、携帯からWebも見れない。後から知ったが自分のいた地域はNTTの設備が壊れたらしく固定電話(公衆電話)もまったく通じない。唯一奇跡的に見つかった死んだ親父から貰った単4乾電池で動く携帯ラジオが唯一の情報源。それを聞いて電気、水道、ガス(特にガスの)のライフライン復旧の見通しが殆ど無いことを知るぐらい。
僕達のなんちゃって被災生活は4日間だけど
それでも僕のいた町は殆ど被害らしき被害はなく、ライフラインが全て止まったぐらい。あたりを見回しても倒壊らしき建物は見当たらないし、子供はのんきに遊んでいる。携帯がメール、ネット、電話、固定電話が一切使えなくなり、水が出ない、電気が使えない、カセットコンロも無い、情報は単4で動く壊れかけのラジオのみ、という状況になりトイレは風呂の残り湯で何回かに1回流し、水は出なくなるなと思っていたのでペットボトルに汲んでおいたものを飲み、食べ物は冷凍ご飯を自然解凍とか、冷蔵庫のものとか、冷凍庫の自然解凍されたブツを食べたり・・・
2日目に避難所に行き、新聞の号外の写真を見て今まで聞いていたデマと思われるような話(水が宮城野区奥地まで来たとか、町が一つ水没したとか・・・)が本当だったと知る。僕が大好きなWebは一切通じず、なんの役にも立たなかった。
食料を買出しに行くんだけど、いままでのセカセカした生活から開放されてなんとのんびりという感覚に陥ったり。食料も買えるのは「せんべい」だの「缶詰」だの「お茶」だの一人数点とか・・・でもその100人ぐらいの列に家族して並んで、自分の番が来るまで何もするわけでもない・・・といった状況。
情報が欲しくて近くの避難所に行くも、数十人の避難者はいるが、僕の町はあまり被害が無かったらしく救援物資等も後回しにされるってのが分かった。そして話を聞いていると、今日中には水が復旧するとのこと。そしてとの通り夜には水が復旧。
5日目の昼には電気が復旧し、オール電化のうちは他の人がまだ復旧していないにもかかわらず一足先に普通の生活に戻ってきた。
福島原発1号機の事故に関して、
黒澤明監督の「夢」のなかの話である「赤富士」を思い出した。放射能が危ないということで放射能に色をつける技術を開発したってところだ。しかし原発がメルトダウンし、放射能が漏れると人々はその煙を避けて右往左往する。主人公の言う「狭い日本だ、逃げ場所はないよ」に対して倍賞美津子が劇中で言った言葉「分かってるけど、逃げなきゃどうしようもない」ってのが思い出される。
その数値は本当はどんな意味を持つのだろうか、それが分からない限り、先の映画のようなことが繰り返される。当然僕にも分からない。
地震に思うこと
「こういった災害に対してネットは何の役にも立たない。」「IT業界なんてこういったとき何の役にもたたないな、電気工事が出来るわけでもないし」これはこの文章を書く今日、同じ会社の社員に言われた言葉。あとWebでは「Twitterは災害時役に立たない」と言った記事も見たり。確かに言えている。災害からネットのある生活に復帰して、ネットでできる人助け、災害情報が沢山できてきている。自分もなにかやらねばと居ても立っても居られない。
でもね、そのネットの必要な情報は本当に必要としている人達には届いているのだろうか?と感じた。高々3日だけでもネットに通じなかったが、ラジオで言っていたヤシマ作戦が素敵ぐらいしか分からなかったし、デイトFMが時折流す「あなたは一人じゃない」に凄くイラっとしたし。電気が通じネットを使う人達と、電気も通じないネットも通じない被災地にいる人達との間には深い断絶があるのではないかと感じた。対岸で火の手が上がって逃げ惑う人が見えるところで、祭りを開いているような感覚を受けた。
でも、先に書いたTwitterは災害時役に立たないって言う言葉には「ツールには得意、不得意があるからね」と感じていたが同じく、ネットができる支援ってのには得意、不得意があり、場面、場面で人間が間に立ってなにかしなくちゃならないんではないかと思ったり。または直接的なものではなく、間接的な支援に止めるとか。http://todoke.org/ (←もうすでに別の団体がドメインを利用していいます。注意!)なんかは、正直言うと、「被災者じゃない人達が何祭り開いてんの?」ぐらいの感覚があった。そのhttp://todoke.org/ (←もうすでに別の団体がドメインを利用していいます。注意!)なんだけど、続々と企業から物資が届いたってハンコを見ると、得意な部分でやればいいんだ!って感じるようになったしね。
TwitterのタイムラインとかではNTTの社員を罵倒する発言があったりしたけど、そのとき僕が参加していた仕事は某会社の基盤事業。止めてはイケナイ部門。震災当日からその社員達は寝ずにハードウエアからミドルウエアまでのチェックに奔走していたし、当然その方たちにも家族はあったはずだし、家のことも心配だったでしょう。仕事柄それらを無視してまず復旧にあたっていた。
自分の知り合いにもNTT社員はいて、後からメールで知ったが、震災当日から会社泊まりこみで自分のことは後回しにまず止めてはいけないものの復旧に当たっていた。それを目の当たりにしているので、「なんかなぁ」という感覚。それから比べると僕の仕事は何て楽な仕事なんだろうと思ったり。だって、その人達が死に物狂いでやっているときに僕らはのんびりと家族で近くのスーパーの列に並んでいたのだから。
とりあえず、震災当日からおもったこと忘れないうちにあげておいた。