わかったつもり?読解力がつかない本当の原因? (光文社新書)
- 作者: 西林克彦
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2013/12/13
- メディア: Kindle版
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いつものごとく、帰り際にゾンビのように本屋をさまよっていると本を探している姿は、いねがー、、いねがーーー、、わるいごいねがーーーー、、、多分そんな風に見えたに違いない。そんなときに見つけた本。自分も文章を書く仕事をしているのだし、きちんと分かったということとを知らねば・・・フフンなどと神妙な顔つきで買ったわけではない。いつものごとく、何読もうか・・・と探し続けてさまよい歩き、足も疲れてきたしひもじいし、もう僕の心の中には家でまつ子どもたちの笑顔が見えていた。その果てにたどり着いた所で見たタイトルがこれだった・・・と言うだけ。あぁ帰れる!
著者の言う分かったつもりというのは、本書を読んで誤解を恐れずに言えば、本人は十分に理解したと思った状態(そこからの文章から理解できることをあきらめた状態)や間違った理解をした状態。その状態からいかに抜け出すのが難しいか、その状態から脱出する方法とは何か?という事を述べている。色々な例文を基に、いかに自分が分かったつもりの状態になり、その状態に気が付けるかを体験させてくれる。
そもそも文の理解については本書によると、
(文章の)文と文に関連が付かない → 分からない
(文章の)文と文に関連が付く → 分かった!
いう状態とのこと。
文と文の関連が付く、なんとも分かったような分からないような。これ、文章には文脈と言う背景があり、その背景が分かると文と文の関連がなんとなくわかってくるということ。文脈は雰囲気と言ってもいい。本書でも言っていますが、文章を理解するという事は、文の部分部分を理解しつつ積み木のように積み上げて最後に文章が分かった!となるのではなく、初めに文章に文脈がありきなんだそうです
さらに、その文脈から文と文の関連をわかるには、個人が持つ知識(本書ではスキーマと言う心理学用語を使っています)が必要になるとのこと。文章を理解するためにはその文章にある文脈により自分の持つスキーマで必要なものが発動し、理解し、文と文の関連をつけていく。ここまでして人間は文章を理解するという事ができる。でも、この理解した状態、果たしてこれはその文章を完全に理解したという事でしょうか?これが本書の言う分かったつもりを理解するための引っ掛かりです。
この文章を理解した状態は本人にとっては疑問がすべて解決した状態。一種の安定状態であり、そのため本当の理解のためには次に何を文章から理解すべきかが分からずにこの状態を脱するのが難しいといいます。疑問がないからね。本書では文章の内容を表にして理解を深めようとしていますが、理解を深めた時に起きるのはまた疑問なのである。そしてまた疑問を解決すべく文章を読み込んでいく。理解とはまた永遠なり。
先ほど文脈ありきと書きましたが、じゃぁ文脈が書き手の考えに誘導するようなものだったら?読者は容易に誤読していしまいます。結構文脈の力は大きく、文章自体の理解を別のものにしてしまいます。文脈により発動するスキーマは異なるために起こるそうで、本書では、朝の身支度、という文章を、失職者と株の取引人という二つの文脈で、発動するスキーマが異なり、全く別の理解になることを説明してます。
一つの文章から個人がどの文脈を背景に読むかにより使われるスキーマは異なってくるため、人により解釈が変わってきます。面白いのは文章から引き出されるものが、その文章に書かれているわけではなく、個人の読む際に使う文脈により引き出されると言うところ。
普通に考えれば部分の小さな読み違えが積み重なって最後の理解の段階で読み間違えを起こすと考えがち。でも事実は文脈により必要なスキーマが使われ、部分から漠然とした『間違えた』意味を引き出しながら読み違えた状態を維持していく。文脈っていう背骨、思い込みを維持しようとするんだね、人間の頭は。つまり、余程気をつけて読まないと始めっから間違えた状態になるわけで、作者が作った文脈の支配を脱するのは難しいってことですね。
本書の中でタイムリーで面白いと感じたことがひとつあった。本書野中でp137にある、最初からわかったつもり、という説明です。この中でニャーゴという小学二年生の文章についての説明があります。子ネズミを食べようとした猫のニャーゴという鳴き声が子ネズミには単純に挨拶と勘違いされ、困惑し、食べ損ねる猫の話で、なぜ?猫はネズミを食べなかったか?という問いに最初から猫は食べるつもりがなかった、という誤読をするというわかったつもりの状態です。
これ、タイムリーにも娘が学校で習っていてちょうど聞いてみたのですが、やはり猫はネズミを食べるつもりがなかったのだと誤読しているのです。理由も本書で言っているのと同じく、猫はいい猫だからと。自分も読んで見ましたが本のどこにもよい猫のくだりはなく、振り回される猫が戸惑っているだけなのです。文脈という雰囲気により間違った理解をしてる例でこれは恐ろしいと同時に本書を読んでいる最中としては最高に面白い!と感じました。(私も本書の説明した内容という文脈があるから誤読しないだけなのかもしれませんが)
文章について分かったという状態は常にわかったつもりという状態でもあって、これは我々の仕事で使っている技術や知識と同じで分かったという状態を放って知識のアップデートを怠ると回りとずれていくのに似ています。いわゆる老害とか言われるアレですね。いずれも本人が自覚できないというのが難しい。
文章の解釈は複数の文脈を取り入れることで複数の解釈も可能であるが、逆に知らない文脈の解釈は当然ながら見えない。自分の知る文脈から見たわかったつもり、という世界が広がってる。しかし著者は複数の解釈はあってもよいがいずれも整合性があるなかでのみ存在しえる、と言っています。
文章は無数の文脈からの解釈が可能でありそれらの解釈は整合性を拠り所にのみ存在しえる。(それらが全て正しいとは言ってない)正しいと言う証明は悪魔の証明ということなんだろうね
そうするとまず、文脈をどこから持ってくるかと言うことだろうか。より正確な解釈は書き手の文脈のみならず自分や他人の持つ文脈よる解釈も検討する必要があるだろう。また文脈からスキーマが発動されるわけであるから、個人のバックヤードに膨大なスキーマが必要となるのだろう。スキーマがなければ理解すらできない。まさに、、、
勉強しろ
と言われているようだ。
にしても今できることは、読んでる最中に文脈による解釈に感じる居心地よさに注意ということだろう。それはとりもなおさず、わかったという状態であり、なおかつ、わかったつもりの状態なのだから
いや、この本読んで、文章を読む事の恐ろしさの方がよく分かったというべきか。
学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)
こちらは人が学習するという面から、スキーマなどを扱っています。とても面白く読める良い本です。
- 作者: 今井むつみ
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2016/03/19
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