arcanum_jp’s blog

おっさんの日記

母の戦争体験、および子供時代

こういうのは今のうちに聞いておいた方がよいと思っていたところ、お盆で帰省した時に話題を振ったら話してくれた。

 

母は宮城県丸森町の大張地区で11人兄弟の7番目ぐらいに生まれたのだけれども小学2年生で終戦を迎えた。以前書いたのはその後のお話。

 

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仙台空襲時は親におぶさって見ていたそうだ。だから多分これは母が小学校にも上がる前の話だろう。その時の記憶である仙台方向の山の空が真っ赤になっているというのを今だに覚えてるってことでものすごい光景だったのだろうなと。

 

戦争中は映画「この世界の片隅に」で見たように電灯に黒い布を被せて下のちゃぶ台だけが明るくなるようにして夜は過ごしたそうだ。

 

そして農村の日常としてはこんなのも聞いた。

 

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母も日常的に自分のお椀ですくって飲んでいたそうだが父親も朝起きてくるとお椀ですくって飲んでいたそうだ。今と違って車を運転するなんてこともないし、江戸時代と同じような感覚だったんだろうね。酒は夜飲むものなんてのは戦後車社会になった田舎で70年ぐらい前からのつい最近できた行動なんだろう。

 

 

その辺から漏れた話を今日聞いたので書いてみる。

 

農家というといろんなものを自分の家で作っていて、例えば豚なんか残食を食べさせて大きくなったら潰して食べる・・・自分はそう思っていたしそういうのみてきた。でも戦中、戦後は実は豚は食料としては食べなかったそうな・・・で、不思議に思ったのだが、よく食べていたのが「ソーセージ」

 

ソーセージだけは結構な頻度で食べていたそうだ。多分、家で育てていて出荷できるようになった豚は自前で潰すのではなく食肉加工業者に売ったって事なんだろうなと。食肉加工業者も腸なんかはいらないのでそれを使って腸詰を作っていたと。聴きながら思っていた。

 

そういえば食肉加工業者といえば自分が子供だった頃、食肉加工業者から安く買ってきた1頭分の豚の中もの(内蔵)を料理して食ってたっけ・・・リンパ腺などをはじめに取り除いてあとはモツ煮みたいな料理になって食べてたなと。ものすごく臭いんだけどうまいのね(😀)

 

閑話休題

 

よく食べた肉でいうと鳥、ウサギなど。ウサギは猟師さんに2〜3日前に言っておけば内蔵や毛も処理済みのウサギが3羽ぐらい家に届けられたそうだ。今と違い雪が深かったからウサギなんてのはワンサカいたんだろう。

 

どうやって食べるかというと、肉は削ぎ落として料理にするのだが残った骨も食べる。どうやって食べるかというと、叩いて細かく砕いてそれを肉料理に一緒に入れてしまって食べたそうだ。肉団子にもこまごました骨が入っていた。そう言ったのを喉越しいずいけどゴリゴリ食っていたそうだ。

 

これで思い出したのが「ゴールデンカムイ」のアシリパさんが作るリスの料理で「チタタプ」これに似たようなことをしていたのねと。何もアイヌだけじゃなく昔はそんな風にして骨まで食っていたのですねと。

 

 甘味料なんかは砂糖なんか戦争中で買えない、買えたのはサッカリンだそうだ。餅なんかを囲炉裏の灰(アク)のところに放り込んでおいてそれがオヤツになったそうだがそれがサッカリンで甘く味をつけられている。あと今でいう小麦粉を水で溶いて焼いたもの。いわゆるパンケーキだけどもこれにもサッカリンを入れて食べたそうだ。

 

甘味料でいうと山に行けば秋になればヤマナシというナシの小さい版の果物とか柿とか成っていたそうでそういうのを食べたりしていたそうだ。自分も子供の頃、秋に母の実家に行くと父と一緒になって柿を米袋一杯とって食べていたなと。

 

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戦中の農家の食いもんとして栗も忘れちゃいけない。家の裏山には栗の木がたくさん生えていて秋になるとたくさん食べていたそうだ。栗の実をたくさん取るとそれらは蒸して紐に通して吊るしておく。それらもおやつとして食べたそうだ。

 

それも3月ぐらいになると中身の水分は干からびて持って振るとカラカラと音を立てる。そうなったものも食べるのだが干からびているため硬い。でも美味しかったそうな。食べるものがあっただけで幸せという世界だったみたい。

 

3月になると農業の準備で芋かなんかの苗床を作るために山からたくさん葉を集めるそうだ。その手伝いなんかをするのだが、山で葉を集めてる時にその下にある冬を越した栗が転がっていたりしてこれがたまらなく美味しかったそうだ。

 

あれかな、、キャベツが寒さで糖度を増すように栗も一冬越すと甘くなるのかね?そう思いながら気持ちはジュルリ・・・となっていた。

 

戦時中農家に色々と着物を持って行って交換すると言った話をよく戦争体験で聞くがその辺はどうだったのだろうか?戦争中は米を作る農家が米を持っていて優位だったって話も聞きますし、、、

 

これが実は農家にも米は殆どなかったとのこと。戦時中、国からの供出供出供出・・・と農家の米倉はスッカラカンだったそうで、着物を持ってこられても交換するものもない。上で書いたような山の幸があったから偶然にも生きていられたッてことだったそうだ。

 

母は戦争中は子供だったのもあるためか、普通のいわゆる悲惨な戦争体験なんかは聞けないが、その時の田舎の暮らしがちょっと垣間見れて面白かったなと。

 

母は既に85歳を超えています。もし5歳年上の父が存命でも90歳代、その父でも終戦当時はだいたい中学校なのです。それより上の戦闘に加わった世代というのはもう若くても95−100歳あたりとなり、戦争体験を聞くってのはもう殆ど無理になってしまっているんだなと。